ボクは思考する#2
晴天のもと、走りながらボクは思考する。
まず頭に浮かんだのは、出掛けに冷凍庫から取り出した豚ロースのブロックについて。
ローストポークにでもするつもりで、解凍を始めたが、バカの一つ覚えのようにローストポークでもつまらない気もする。
チャーシューにでも変更してみようか。解凍した後で、浸けるタレを中華っぽいものにすればそれっぽくなるのではないか。
ぜひそうしてみよう。
春に漬けた梅干しの梅酢が冷蔵庫に残っていたはずだ。解凍する塩水の塩の代わりに使ってみるのも面白いかもしれない。
これも実験してみることに決定。
野菜はどうしよう。
中華にするのなら玉子スープはどうだろう。
ボクは野菜室の中を思い出す。
玉ねぎ、白菜、シメジがあったはずだ。
シメジはでぽが好きではないが、そんなことは気にしないことにする。
しばらく走ったあとニンジンもあったことに思いあたり、ニンジンも入れることにする。
夕飯のメニューはなんとかなりそうだ。
ここまでで3㌔。
考えていると、スピードが上がってきてしまう。㌔6分を切ってしまっている。
反省。
思考は巡って、職場の子どもたちの陸上練習に移り行く。
この半年、子どもたちに走ることを教えてきた。
最初はいやがっていた子が、暇だから練習したいといってきたときは、本当に嬉しかった。
そういった意味では、報酬のほとんどは、いってこいな気もしているのだが、給料と見あっていないことに気がつく。
自己評価の上方修正。
年度末の自己評定を付けるときに、記入してみることを思い付く。
それもぜひやってみることに決定。
あとから入ってきた子のモチベーションアップ方法への思考。しばし。
そこで4㌔。
想定ペースより早いことと、昨日の筋トレの影響で息が上がりつつあることに気がつく。
まぁよい。このままいくことに決める。
しばらく思考停止。
5㌔。折り返す。
何人かのウォーキングをしている方とすれ違う。
さっき挨拶したばかりの人とすれ違うとき、少しだけ恥ずかしさが浮かぶ。
思考は思考そのものへと移る。
こういった文章は森博嗣さんの小説S&Mシリーズに色濃く影響を受けている。
しかしその影響を選択しているのは、間違いなくボクであり、こういった思考そのものは、ボクのしそうだと思う。
否。
思い込もうとする。
思考そのものは、誰かからの受け売り、影響であることは否めないし、受け売りの集合体だ。
ただ取捨選択はしている。
しかしその取捨選択も誰かしらの影響であることは否めない。
であるならば、ボクは誰なのか。誰が僕なのか。
思考一旦中断。
天気がよいのに、足元ばかり見ていることに気がつく。
見上げてみる空は青い。青い。
日差しは暖かい。
写真が撮りたくて立ち止まる。
空と足とを撮りたくて、冷たいアスファルトに寝転がる。
空に向かって、2枚。
雰囲気のよい方を選択。
思考は自動的に再開。
誰の影響で思考しているのかは、どうでもよくなる。
思考を書き留めている。
誰かに伝えたい?それもどうでもいい?
ボクは人と関わる仕事をしている。
伝えたい意志があるのか。
不明。
伝えたい意志があるとして、それはボクの中にプログラムとして組み込まれているのか。
ボクの思考が伝えることによって、誰かの意思になり、その思考に影響を与えることを望んでいるのか?
望んでいる?
誰が?
7㌔。
この辺りになってくると、思考の上澄みが掬われてきて、濁りのない部分が掬えるようになってくる。
この感覚が得たくて走っているようなものだ。
しかしながら今日は思考を止めてみようと。思い当たるが、すぐに無理だと思い直す。
思考することそのものの心地よさ。その事を知っている人はどれぐらいいるのだろうか。
一人、思考の海に潜っていく心地よさ。
人は結局、一人。
しかし誰かしらの影響を受けなければ、思考は成立しない。
他者からの影響。一人でいる時間。
両方があり、思考はできる。
こんな素敵な時間を確保できるランニングをボクは愛する。
残り1㌔。
ペースは㌔5分。
最後は思考停止。
走ることに集中。
走る。走る。
10㌔終了。
ダウンのウォーキング。
歩きながら家にオイスターソースが少しだけ残っていたことに、思いあたり豚肉の解凍する塩水に入れてみようと思いついたところで家に到着し、思考終了。